【 緑雲苑 】
樹木葬地は緑雲苑という名称です。槇の木等に囲まれ静かです。 秋には黄葉がとても美しい銀杏の木が中心にそびえます。 利用者は、苔地のそれぞれの区画に埋葬されることになります。 たくさんの方々の墓が集まり、全体でひとつの墓となります。 個人墓であり、集合の墓でもあります。
【 使用料 / 期間 】
1.墓地利用は、生前申込み、遺骨申込みともに可能です。
2. 1区画の使用料は1人利用70万円、2人利用90万円となります。
(1区画:20cm×20cm、2人利用は上下にて埋葬)
※ご遺骨は、さらし木綿に包み自然に還る方法で埋葬します。
3.ご希望の方は樹木葬地入り口に建つ墓碑にお名前と埋葬区画を刻むことができます。 ※彫刻手数料 1万5000円 が必要となります。
4.使用期間は、最後に納骨された方が33年を迎えるまでとなります。
5.33年以降は、土となったご遺骨の一部を両足院内の総墓へ遷座(合葬)し、引き続きご供養します。
6.年間の管理費はありませんが、緑雲会(合同法要祭、会報による情報提供等)への入会が必要となります。
7.使用料は、契約締結時に一括してお支払いいただきます。
8.使用者が契約者の場合は証人が必要となります。
【 各種法要 】
1.両足院により臨済宗教義に則り春と秋、年二回の合同法要を行います。 2.希望者は、納骨の際及び年忌法要などに際して、両足院により臨済宗教義に則った儀礼を行うことができます。(別途お布施が必要になります)
建仁寺は建仁2年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し臨済宗開祖栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。 創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。 その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、正嘉元年(1258年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。 文永2年(1265年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院 の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。 やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃します。 ようやく天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されます。 明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となります。 また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小 され現在にいたります。
両足院は、建仁寺の開山・明庵栄西禅師の法脈・黄龍派を受け継ぐ龍山徳見禅師を開山とする臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。 現在の両足院は、開山当時「知足院」と号していました。知足院は、龍山徳見禅師の遺骨が知足院に葬られてからは、徳見禅師の法脈を継ぐ当院3世文林寿郁の両足院・一庵一麟の霊泉院などの黄龍派寺院の本院でした。 創建された当時の両足院は、知足院の別院、または徒弟院として建仁寺開山堂・護国院の中にありましたが、天文年間の火災の後、「知足院・両足院」両院を併せて「両足院」と称する事となり現在に至ります。 また、両足院は、室町時代中期まで霊源院と共に、「五山文学」の最高峰の寺院でありました。 江戸時代に入って も10世雲外東竺など当院の住持が、五山の中で学徳抜群の高僧に与えられ最高の名誉とされる「碩学禄」を授与 されたこともあり、当院は、「建仁寺の学問面」の中核を担いました。 さらに、知足院創建時より明治初期にかけて、歴代住持から数多くの建仁寺住持を輩出し、明治時代の新制度に よる建仁寺派の初代管長を、当院15世荊叟和尚が務めているなど、建仁寺にとって重要な僧侶を擁する寺院という性格も持ち合わせました。